戦後の文化史、芸能史に残る実績と挫折、そして復活…「破天荒であり繊細」角川春樹とは何者なのか?

出版社社長、映画監督・プロデューサーなど幅広く活躍を続ける角川春樹氏(83)。『完全版 最後の角川春樹』(河出文庫)は伊藤彰彦氏による角川氏への50時間にわたるインタビューをベースにしたもので、一冊に彼の人生と日本の戦後の出版文化史、芸能史が網羅されている。 伊藤氏は角川氏の原風景は1910年(明治43年)に米穀商「角川商店」を設立した祖父・源三郎氏にあると指摘し、こう続ける(以後のカギ括弧は伊藤氏)。 「源三郎さんは北陸一の米穀商となりますが、7人兄弟の長男として家族を支えるために小学校を2年で中退し、角川家の養子となり、最初は魚の行商から始めます。富山湾で仕入れた鮮魚を、樫の天秤棒を担いで山間部まで売り歩いた。魚は鮮度が命だから、色が変わっていたり生ぐさい臭いがしたら信用にかかわる。魚の行商をやるなかで、〝信用第一〟が源三郎さんの信条になります。 そして、山間部で暮らした被差別部落の人たちとも分け隔てなく付き合った。米穀商を設立すると従業員として被差別部落の人も積極的に雇い入れた。自分が養子として肩身の狭い思いをしたから、人をけっして出身母体で見ない、人間そのものに信用が置けるかどうか、その真贋を直感で判断した。 1918年(大正7年)に富山で米騒動が発生し、豪商に対し打ちこわしが起きますが、角川商店は素通りされ、その難を免れた。それはひとえに源三郎さんが被差別部落出身の人をはじめ地域の人たちに誠実に接したからです。この源三郎さんの『信用第一』『人間を見る眼力』が角川さんにも引き継がれています」 角川氏には「5度の離婚と6度の結婚」をはじめ、國學院大學の学生時代には渋谷で200人と乱闘をし、新聞沙汰となる。卒業時には一つの右翼団体と二つの暴力団がスカウトにくるなど破天荒なエピソードは枚挙にいとまがない。しかし、その一方で祖父譲りの「肩書で人を見ない」を実践していることはあまり知られていない。 「料亭の仲居さんや現場で働く方の名前も覚えて心配りができる人です。商談で料亭を使い、接待相手を見送る。その後、角川さんは勝手口から料亭に戻る。帰ってきた角川さんを見て、仲居さんは何か粗相があったのではないかと不安にかられる。けれど、角川さんは『今日の商談がうまくいったのは◯◯さんのおかげです』と担当した仲居さんの名を覚えていてお礼を言う。 女将や料理長(いたちょう)ではなく、現場で働く人にも角川さんが頭を下げてお礼を言うので当の仲居さんは感激しますし、女将や料理人の心もがっちりつかむ。山あり谷ありの人生ですが、そうやって培った人との関係は切れなかった」 ◆小説を映画化するだけでは終わらなかった 映画監督や映画プロデューサーとして、1976年、34歳のときに映画制作の母体となる『角川春樹事務所』を設立。同年、角川映画の第1弾として『犬神家の一族』、以降、『人間の証明』『セーラー服と機関銃』などいくつものヒット作を生み出した。横溝正史、森村誠一、高木彬光、片岡義男(86)、赤川次郎(77)らの小説も次々と映画化。映画の公開に合わせてサントラ盤LPも発売するなど、出版と映画と音楽による相乗効果は”角川商法”と呼ばれ、メディアミックスの先がけとなった。 「革新的なビジネスモデルで、角川さんだからなし得た手法といえる。映画だからといって興行収入だけに頼るのではなく、映画館でその映画のビデオを同時に売った。『Wの悲劇』(1984年)の公開に合わせて、薬師丸ひろ子が出演する資生堂の化粧品のCMに映画の主題歌『Woman〝Wの悲劇〟より』を流した。 原田知世作品はその当時、彼女がCMをしていた東芝のラジカセとタイアップし、各企業から広告料をもらった。角川文庫には紙の栞を挟み、表面は映画の割引券も兼ねた宣伝で、裏面に企業広告を入れた。出版社のみならず企業やレコード会社やテレビ局を巻きこむビジネスモデルをつくったのは角川映画です。 また、漫画家の大友克洋やイラストレーターの和田誠を映画監督にしたのも角川さんだからこそできた。人と会話をするときは、8割は聞き役に徹する。もっと面白い話はないか、と別のジャンルで世代の違う人から話を聞いて角川さんは独自の感性で仕事を広げ、無名のアーティストや若手監督も角川映画にどんどん起用した」 メディアミックスで大きな成功を収めるが、映画での成功の背景にも祖父譲りの「心配り」が隠されていた。 「出版や音楽業界に比べて、映画界は良くも悪くもどんぶり勘定。著作権の意識も低く、口約束で物事を進める傾向が強かった。駆け出しの脚本家が時間をかけて書いた脚本も言い値で買い取り、ともすれば安く買い叩くことがままあった。 コストをできるだけ抑えるのが既存の映画会社のプロデューサーの常識でもあったが、角川さんは『映画に携わる人の賃金をしっかり払う』と異を唱えた。映画公開に併せて、角川書店から映画のシナリオを文庫で出版し、原作者のみならず脚本家にも印税が入るようにしました。 現場のスタッフにも誠意をもって接し、いままで裏方だった宣伝スタッフの名前も映画のクレジットにちゃんと出した。すべてのスタッフに当時の日本映画の相場の倍のギャラを払った。一般的に映画は完成に至らないことが多々あり、その際は補償額を最初から決めてタダ働きをさせないようにしました。監督や主演俳優にはインセンティブを与え、利益を関わった人たちへと分配する仕組みを作った。角川映画が一つの時代を築いたのも、その配慮があってのことです」 出版社『角川書店』の代表取締役で自身も編集者でありながら、「映画と原作は別物」として、映画と小説のラストが異なることや主人公の設定が異なることも許容した。いや、率先して変化を求めていった。 「角川さんの持論として、小説を読んだ人は行間や活字から自由にイマジネーションを膨らませるから、どんな映像を提供しても読者のイマジネーション以上に勝るものはない、として、あえて小説とは別設定で映画を作っていた。いまでは『原作に忠実に』という風潮が強まっていますが、角川映画では『映画が原作と違わないと面白くない』というのが基本的な考えです。そしてその映画を観た作家たちが触発されて次作に着手し、角川文庫に還ってくる──という、敏腕編集者の顔もある」 ◆刑務所で「人間が大きく」なった!? 1993年、角川氏は51歳のときに麻薬取締法違反、関税法違反、背任横領の容疑で逮捕された。初犯のために執行猶予がつくと思われるも、弁護士からの「全部否認しろ」との法廷戦術が裏目に出て、4年半の実刑判決を受ける。その結果、彼を時代の寵児としてもてはやしていた者たちが次々に去っていった。 「堀の中は、社会での肩書が通用するはずもなく、むき出しの人間性で判断される場所。『日本財団』の笹川陽平氏(86)の言葉ですが、刑務所は95%の人間が打ちひしがれていくが、残り5%は人間が大きくなって出て来られる場所で、角川さんは後者だった。 角川さんも刑務所に入った当初はショックを受けていたようですが、『入ってしまった以上は何事も経験だ。プライドを捨てて楽しんでやろう』と刑務作業では鱒寿司を入れる箱の組み立てを担当し、手際よくきれいな仕上がりで模範囚にまでなった。 運動会では空手の演舞をアレンジして応援団長をしたら外国の受刑者からも慕われるようになった。俳句を広め、当初5人ほどしかいなかった俳句教室に多くの囚人が詰めかけるようになるなど刑務所生活に順応し、そこで人間としての器を大きくした」 同著の最後に収められるのは、角川氏が石破茂首相(68)らを巻き込んで街の本屋、活字文化を守るために奮闘している姿だ。そこには消滅危機にある街の本屋への想いが溢れている。 「石破さんが5度目の総裁選に出る前の話で、角川さんが、麻布十番(港区)の定食屋で昼食をとっているとき、『石破茂が首相になり、彼に書店振興策を実現してもらう』という直感が訪れ、それを副社長の海老原実に語った。 その帰り道、国会図書館(千代田区)の前を車で移動していたら、たくさんの本を借りて議員会館の事務所まで歩いて帰る石破さんを目撃したそうです。石破氏は政界きっての読書家として知られ、問題解決には各省庁の協力を得なければならないことから角川さん自ら彼を訪ねた。 会ってみたら、石破さんは中学生のときに『ラブ・ストーリー ある愛の詩』を読み、『時をかける少女』『Wの悲劇』など角川映画を観て育った世代であることがわかり、2人は意気投合したようです。石破さんは娯楽作品までよく目を通していて、『読書家であることを知っていたが、学術書ばかり読んでいるのではなく、横溝正史や森村誠一まで読んでいて興味の幅の広さに感心した』と角川さんは話していた。文化の灯である街の本屋を守りたい──。その一心で首相になった今も相談している」 業績や実績がいくつもあり、肩書も複数あり、破天荒でありながら繊細。角川春樹とは何者なのか──、答えが出ないところが角川氏の魅力であろう。 『完全版 最後の角川春樹』(伊藤彰彦・著/河出文庫)

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