【追悼・長嶋茂雄】「決断は8月でした」生前に本人が明かした2001年巨人軍監督退任の舞台裏 「バトンを次の世代に」

プロ野球の読売ジャイアンツ(巨人)終身名誉監督の長嶋茂雄さんが(89)が亡くなった。王貞治さんと共に「ON」時代を築き、9年連続日本一の原動力になるなど「ミスタープロ野球」として広く親しまれた長嶋さん。元朝日新聞編集委員の故・西村欣也さんによる「現代の肖像」(AERA 2001年12月31日-2002年1月7日号掲載)全文を期間限定で掲載する(記事中の年齢・肩書などは当時)。 * * * 長嶋茂雄がプロ野球の公式戦でユニホームを着ることは、おそらく、もう二度とないだろう。そのことは、彼の中で何を意味するのだろうか。20世紀の後半から21世紀最初の年まで、長嶋茂雄は最も有名な日本人の一人であり続けた。その彼がプロ野球の表舞台から降りる。もう、戻ってはこない。 「ユニホームを脱いだと言いましてもね、この時期にやっていることは、昨年(2000年)までとそんなに変わらないんですよ」 陽が沈みかけた都心のホテルの一室で、日本茶を口にしながら、長嶋は話し始めた。 支援者へのあいさつ回り。パーティーへの出席。ゴルフ。マスコミへの露出。野球のワールドカップを観戦するため、台湾にもでかけた。監督時代から、ポストシーズンは、あわただしく過ぎていくものだった。 「変わらないというより、行事は増えましたね」 巨人球団広報部主任で監督退任後も長嶋付き広報担当を続ける小俣進は言う。広島、巨人、ロッテで投手として活躍した小俣は、長嶋が監督を退任した9月28日以来、1日も休んでいない。ゴルフならば、午前6時前に田園調布の長嶋邸に出向く。テレビの収録は深夜にまで及ぶこともある。小俣に休みがないということは、当然、長嶋茂雄に休日がないことになる。 「でもね、2月のキャンプ、あるいはキャンプを終わりましてね。オープン戦からいよいよレギュラーシーズンに入る時、気持ちの変化が出てくるでしょうね」 長嶋は、少し遠くに視線をやって話した。 その時、わき上がってくる感情は安堵に似たものなのか。あるいは、寂しさの色合いが濃くなるのだろうか。 「たぶん、疼くでしょうね」 長嶋はそう表現した。 『疼き』。その微妙な表現にこめられた思いがある。 以前、ユニホームを脱ぐタイミングについて、話を聞いたことがあった。 「80歳まで生きるとして、あと20年弱。野球界から身を引いて、次の人生を、と考えますよ。しかし、生ある限りは生き続けなければいけませんからね。ファンのみなさまが『長嶋、ご苦労さん』と言ってくださる時でしょうね。引き際は本当に難しい」 それが、長嶋の答えだった。今季、ユニホームを脱いだのは、その「時」がきたと悟ったからだろうか。2002年には日韓共催のサッカー・ワールドカップが開催される。大リーグ人気に押される日本のプロ野球は、さらなる危機にさらされるのは間違いない。プロ野球界を考えて、あと1年は監督を続ける、というのが大方の見方だった。「続投」が既成事実のように言われていた。いったい、いつ彼は監督の座を降りる決断をしたのだろうか。 「決断は8月でした」 きっぱりと言って、続けた。 「時あたかもミラクル宣言でね。『奇跡を求めてミラクルアゲイン』とさかんにコメントしながら、ひたすら勝負に徹してきたつもりですが、気持ちのうえでは8月には。選手あるいはコーチには微塵もそういうことを察せられることなく、ね」 もう一度、ユニホームを脱ぐ理由を尋ねた。 「理由ですか。バトンを渡すタイミングだけは、逸してはいけないということです。前回、ユニホームを脱いだ折には、いろんな形で憶測推測が入り、大きなトラブルに巻き込まれて、渦の中でみなさんにご迷惑をおかけしてね。12年ぶりにユニホームを着た時点で、次に脱ぐ時は前回のようになってはいけないという気持ちが強くありました」

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