<創刊企画「大韓民国トリガー60」㉒>独裁に立ち向かった80年光州、「民主主義」の代名詞に

◇大韓民国「トリガー60」㉒ 5・18光州(クァンジュ)民主化運動 1980年5月、韓国各地の大学街は全斗煥(チョン・ドゥファン)新軍部に反対するデモで沸き立っていた。5月15日にはソウル駅に30大学から10万人余りの大学生が集まるほどデモの規模は拡大していた。しかし、デモ指導部はこの日ソウル駅で解散を決定した。いわゆる「ソウル駅回軍」だ。 新軍部はこの機会を逃さなかった。ソウル中央庁で臨時国務会議が開かれた16日午後、武装兵士600人余りが会議場の内外に配置された。中央庁の電話線はすべて遮断された。国務委員たちは憲兵の案内に従って会議場に入った。当時国防部長官だった周永福(チュ・ヨンボク、2005年死去)でさえも後日回顧録で「(会議場に)入っていくとき足が震えた」と語るほど威圧的な雰囲気だった。 この日の国務会議では「非常戒厳全国拡大」が議決された。案件上程から決定までにかかった時間はわずか8分。戒厳当局は政党および政治活動の禁止、国会閉鎖などの措置を下し、令状もなしに2600人余りを拘禁した。金大中(キム・デジュン)は自宅で逮捕され連行された。金泳三(キム・ヨンサム)と金鍾泌(キム・ジョンピル)もそれぞれ自宅軟禁と保安司による監禁措置を受けた。また、この日夕方、ソウル梨花(イファ)女子大学で開かれた学生指導部会議に出席した学生運動幹部たちも全員逮捕された。学生デモの原動力を根本から断つのが狙いだった。 一方、光州では5月14日から16日まで道庁一帯で「民主化大盛会」という時局糾弾大会が開かれた。全南大学・朝鮮大学・光州教育大学などの大学生2万人余りが全斗煥退陣、民主化獲得のための決起大会に参加した。大学教授50人余りもデモ行進の先頭に立ち、学生と志を共にした。5月18日、戒厳令全国拡大の知らせが伝わると学生たちは素早く動いた。事前に行動指針を共有していた学生数百人がキャンパス前に集まり、デモを開始した。7カ月前、野党指導者の金泳三・新民党総裁を国会から除名した後に始まった「釜馬(プマ)抗争」を新軍部は記憶していた。光州大学街での学生デモを早期に解散させなければ事態が大きくなることを懸念したのだ。初期から空輸部隊を投入し強力に鎮圧に乗り出したのはそのためだ。 ◇悲劇で終わった10日間の市民抵抗 5月21日、道庁前でデモ隊に向けて戒厳軍の集団発砲事件が起きた。市民数十人が銃弾に倒れた。しかし戒厳軍は市民の強力な抵抗に直面し、光州掌握に失敗して市外へと退いた。光州市内は平穏を取り戻したが、それも長くは続かなかった。 「光州市民の皆さん、戒厳軍が攻め込んできます。道庁へ集まってください」 5月27日未明、全南道庁の屋上に設置されたスピーカーから市民軍の最後の放送が流れた。「我々は光州を死守します。市民の皆さん、私たちを忘れないでください」。間もなく戒厳軍が光州市内に入ってきた。光州の抵抗はこうして終わった。10日間(5月18~27日)で死者166人、行方不明者179人、負傷者は2000人以上に上った〔国連教育科学文化機関(ユネスコ)「世界の記憶」登録の公式記録〕。 なぜよりによって光州だったのか。5月15日の「ソウル駅回軍」とその後の学生指導部逮捕にもかかわらず、光州の学生運動組織は比較的健在でデモの原動力を維持していた。野党および湖南(ホナム)政治の象徴である金大中の逮捕の知らせは、学生たちの反感をさらに刺激した。当時、湖南地域の教育のメッカだった光州は「学生の都市」だった。光州の人口80万人余りのうち、14%に達する11万人が高校生と大学生だった。彼らが5・18の中心勢力だった。また、当時光州・全南地域人口の95%はこの地域の出身だった。他地域からの転入者が少なかったため、地域住民間の共同体的結束力がひときわ強い面もあった。朴正熙(パク・チョンヒ)政権の時から湖南差別と疎外に対する不満も蓄積されていた。直接火をつけたのは、初期から投入された空輸部隊の残酷な鎮圧方式だった。 5・18光州民主化運動がその名誉を取り戻し真実を明らかにするまで、韓国社会は数多くの紆余曲折を経た。光州市民に押し付けられた「暴徒」という烙印は容易には消えなかった。80~90年代半ばまで韓国では「光州5・18」はタブーだった。5・18に関する市民の証言を収めた『死を越えて時代の闇を越えて』(1985)は大学街で「地下ベストセラー」となった。大学生たちは闇ルートによって広がった5・18ビデオをこっそり見ながら、その日の真実を知った。5・18過去史究明の過程でも大きな困難を経験した。1988年、国会で「光州聴聞会」が開かれたが、全斗煥をはじめ新軍部勢力は証言を拒否したり、虚偽の事実を公然と主張したりした。5・18当時のヘリ射撃問題も論争が大きかった。2018年、国防部5・18特別調査委員会が5カ月にわたる調査の末、「戒厳軍によるヘリ射撃は存在した」という調査結果を発表した。裁判所も国科捜鑑定結果などをもとに「ヘリ射撃を認めることができる」という判決を下した。 文民政府発足後、5・18の名誉回復の努力を続けてきた点は幸いだった。新軍部の権力簒奪(さんだつ)について、検察は「高度な政治的行為であり、司法的判断の対象にはなり得ない」として「公訴権なし」の処分を下した。「成功したクーデターは処罰できない」というものだった。これに対して金泳三大統領は「5・18特別法制定」という決断を下し、新軍部の権力簒奪行為を処罰する法的根拠を設けた。続いて1997年、韓国政府は5・18を国家記念日に指定した。陣営によって「光州事態」あるいは「光州抗争」と呼ばれていた5・18の名称も「5・18光州民主化運動」として定着した。これによって法的・制度的に5・18は名誉を回復したのだ。大統領の5・18記念式への出席も行われた。 ◇ユネスコ「アジアの民主化に寄与」評価 光州の物語は大衆文化・芸術分野を通じて生き返った。映画『光州5・18』(2007)は集団発砲と道庁鎮圧までの過程を大衆的スケールで復元し、記憶を呼び覚ました。『タクシー運転手 約束は海を越えて』(2017)は「青い目の目撃者」と呼ばれたドイツ人記者ヒンツペーターの視線を通して、封鎖された都市の「真実」が外部に知られるきっかけとなった経路を描いた。昨年、『少年が来る』の作家韓江(ハン・ガン)がノーベル文学賞を受賞し、5・18は再び世界の人々の注目を浴びた。韓江は「光州はもはや特定都市の固有名詞ではなく、人間の残酷さと尊厳が共存する普遍的空間を意味する普通名詞となった」と語った。 5・18は私たちの社会に何を残したのだろうか。4・19革命が「民間独裁」を終息させたとすれば、5・18は「軍部独裁」退陣の出発点となった抵抗運動だった。後に大統領直接選挙を勝ち取った87年6月民主抗争へとつながった。 5・18は類似した独裁政治を経験したアジアなど多くの国々にも影響を及ぼした。2011年にユネスコが5・18記録物を人権分野の世界記録遺産(世界の記憶)に登録した理由もそこにある。ユネスコは「5・18光州民主化運動がアジアの民主化と冷戦構造の解体に寄与した」と評価した。また、軍の政治的中立がいかに重要であるかも同時に振り返らせる。昨年の12・3非常戒厳事態の際、国会などに出動した戒厳軍は上部の指示に対して消極的な態度を示したり回避する姿を見せた。これは5月光州での教訓とも無関係ではない。政治的に解決すべき事案を統帥権を口実に軍を動員することは悲劇を招くという教訓を心に刻まねばならない。 最近では憲法前文に5・18精神を盛り込もうという動きが活発化している。与野党ともに「国民統合の契機としよう」としている。5・18の痛みを和合の触媒として引き上げるべきだという声は以前から出ていた。83年3月、亡命者・金大中は米国フィラデルフィアのテンプル大学で「民衆の恨(ハン)と我々世代の使命」を主題とする演説でこのように語った。 「民衆の恨は怨恨ではないため、復讐(ふくしゅう)によっては解消されない。光州の恨を解くことは同じく報復することではない。(中略)民主主義と人権の成就、そして和解と統合を成し遂げることだ」 5・18は「私たちがどのような社会で生きるのか」を決定する試験紙である。与野党は政治的利害を離れ、普遍的歴史性を有する5・18精神の憲法前文への収録を積極的に検討すべきだ。過去は現在を、現在は未来を照らす鏡だ。45年前の5・18を2025年の5・18として振り返る理由がそこにある。 梁炳基(ヤン・ビョンギ)/清州(チョンジュ)大学名誉教授

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