私も含めて大抵の人は、2つの「都合」を使い分けて社会生活を営んでいる。 1つは自分を中心とした主観的な都合で、好きとか嫌いとか、自分の身近に存在するとか存在しないとかで物事を判断する。もう1つは、自分が暮らす社会に合わせた都合だ。法律とか、組織の都合とか、懐にあるお金の多寡とか、投資の利回りとかが判断の基準となる。 大抵の場合、「自分の都合」と「社会の都合」は対立する。この間を適当に折り合わせて、私たちは日々生活している。 その一方で――39歳でこの世を去ったフランスの作家、ボリス・ヴィアン(1920~1959)は代表作の「うたかたの日々(L'Écume des jours)」(1947 複数の訳者による邦訳があり、題名は「日々の泡」とも訳されている)の序文で、「大切なことは二つだけ。どんな流儀でも、きれいな女の子相手の恋愛、そしてニューオーリンズの音楽、つまりデューク・エリントンの音楽。ほかのものは消えていい。なぜなら醜いから。」(野崎歓・訳)と書いた。 「社会の都合」から見ればあまりに身勝手な「自分の都合」と言えるだろうが、こう言い切ってしまうことに、潔い美しさがあることは、否定できない。 自分の好きなものに一心に集中し、「後はいらない」と言い切るのは、若者の特権だ。 ヴィアンが書き残した言葉が、人々の心に食い入るのは、恋愛も音楽も誰もが「美しい、素晴らしい」と思うものの代表であって、しかも「他は醜いから消えてもいい」と言い切る姿勢が若さそのもののきらめきだと感じるからだ。さらには、序文の後に展開するのが、時に「20世紀で最も美しい」とも評される幻想的かつ悲劇的な恋愛小説だからだ。 「うたかたの日々」はヴィアンの生前には、ろくに売れず、死後の1960年代に入ってから、世界中の若者に熱狂的に支持されるようになった。 しかし、その「美しいもの」が、すぐにでも換金できる経済的価値を持ち、利益を生むとなるとどうなるか。 ●美空ひばりとヤクザの関係 「個人の都合」と「社会の都合」が、より合わさって暴走が始まる。人々が「個人の都合」で美に熱狂し、その美が利益になると、美を求めてではなく美が生む利益に引かれて「社会の都合」が寄ってくる。「個人の都合」が「社会の都合」を喚起し、「社会の都合」が「個人の都合」を、一層燃え上がるように仕向ける。 芸能界には、そんな事例がうずたかく堆積している。堆積して山を成す悲劇の頂点に、私たちは美空ひばり(1937~1989)というひときわ輝く星を見る。 一例がヤクザとの関係だ。誰もが認める空前絶後の歌唱力の持ち主であった彼女は、なぜ興行にあたってヤクザに頼らねばならなかったのか。ひとえに彼女の歌がそれほどまでに魅力的で、実社会での経済的価値を持っていたからだった。経済価値があるものを利用して搾取しようと、「社会の都合」が寄ってくる。あの時代、なにかと横やりの入ることの多い地方興行を平穏に行うにはヤクザの力が必要だったのである。しかし、そのことは同時に彼女の人生に様々な影をもたらした。 いや、それでも美空ひばりの例は「最悪」ではない。なぜなら彼女の歌声という誰にもまねのできない人類の財産は、直接聞いた人々の心に残り、さらには録音・録画という科学技術で、コンテンツとして後に残ったから。そこには確かに「本物」があったから。 「最悪」なのは、「“美しい”ものを、無理にでも作り上げて、利益化する」という振る舞いだ。 どうも、高校野球はその域に達してしまったように思える。もはやこれは呪詛(じゅそ)だ。 この夏、広島代表の私立広陵高校、複数の野球部員が下級生に暴力を振るったことが明るみに出た。1月に1年生野球部員1人に、2年生野球部員が暴行を加えたというのである。3月に高校側から報告を受けた高野連は厳重注意という処置を下した。しかし、それでは事は収まらなかった。 同校が「夏の甲子園」に出場して1回戦に勝利したあたりで暴行話がSNSを中心に広がり、さらにOBから「暴行は日常的だった」という話も出てきてメディアが取り上げるようになった。証言の中には「暴行の結果、半身不随になった」というような傷害事件と言わねばならないような事例も含まれている。同校は2回戦を辞退。開幕後の出場辞退は、過去に例がない。