爆破事件で「多数の死者」を出し、学生同士でも殺し合い… 過激なテロの嵐となった「学生運動」とはなんだったのか【昭和100年目の真実】

■─時代を揺るがした2つの安保闘争─ 1960年代の学生運動は、六〇年安保と大学紛争という2つのピークを経験した。日米安保条約をできるだけ対等なものに改定しようとした岸信介(きしのぶすけ)政権に対し、社会、共産の野党、労働団体や全日本学生自治会総連合(全学連)の学生らなどに反対運動が広がった。 昭和35年(1960)5月、自民党が改定安保条約の批准を国会で強行可決したことに対し、岸首相退陣を求めるデモ隊が連日、国会議事堂や首相官邸周辺に繰り出した。6月15日、警官隊と衝突したデモ隊の中にいた東京大学文学部生の樺美智子が死亡。岸批判は頂点に達し、政府はアイゼンハワー米大統領の訪日を延期。批准手続きを終えると岸は退陣を表明し、六〇年安保闘争は終わった。 学生運動が再び活発化したのは60年代末。東京大学や日本大学をはじめとする全国の大学で学生処分や学費値上げ、大学の不正経理などに抗議する運動が起き、校舎をバリケード封鎖するストライキが広がった。 多くの大学で、共産党の路線に批判的な新左翼党派や、既存の党派や学生自治会を批判して直接行動をめざす学生らが参加する「全学共闘会議」(全共闘)が運動の主体となった。昭和44年1月には東大の安田講堂を占拠した全共闘の学生を機動隊が排除する「安田講堂事件」が起き、その年の東大入試が中止された。加熱する武装闘争方針が引き起こしたテロリズム運動は過数化し、新左翼党派は過激派(察用語では「極左暴力集団」)と呼ばれた。ヘルメットや角材で武装した学生同士が衝突し、殺し合う「内ゲバ」(内部ゲバルト=暴力)が多発した。 昭和45年3月、日本初のハイジャック事件が起きた。赤派が日航機「よど」号を乗っ取り、韓国経由で北朝鮮に渡った。「よど号」グループは後に、北朝鮮による欧州での日本人拉致事件にかかわったと報道されるに至る。 昭和47年2月には連合赤軍が長野県軽井沢町の「あさま山荘」で管理人の女性を人質に立てこもった。10日後に警察が山荘に突入して5人を逮捕したところ、犯人グループは群馬県の山岳ベースなどで仲間14人を殺害していたことが判明した。 昭和49年からは連続企業爆破事件が起きた。8月には東京・丸の内の三菱重工ビルで時限爆弾が爆発。8人が死亡しけが人は400人近くにのぼった。三井物産や大成建設など大企業が次々とねらわれ、いずれも「東アジア反日武装戦線」を名乗る予告電話の直後に発生した。昭和50年に全国指名手配された桐島聡は、49年後の令和6年(2024)1月25日、入院中に本名を名乗り、4日後に死亡した。偽名を使って逃亡生活を続けていたとみられる。 1960年代末には米国やフランス、西ドイツなど欧米各国でも学生運動が盛り上がった。第2次世界大戦後に多数の子どもが生まれ、世界で「ベビーブーマー」、日本で「団塊の世代」と呼ばれた世代が大学に進学した時期にあたる。共産圏でも、チェコスロバキアで1968年に起きた民主化運動「プラハの春」や、中国での文化大革命時に登場した「紅衛兵」も、学生やその世代が運動を担った。 監修・文/北野隆一 『歴史人』2025年3月号『昭和100年目の真実』より

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加