ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(176)

狩り込まれた人々の多くは事件とは無関係であった。が、辱め、虐待、拷問、理不尽な取調べを受けた。それが原因で死亡、あるいは後遺症で苦しんだ人も少なくない。 敗戦派がつくった自警団と警官隊が、戦勝派の強硬分子を追い詰め、銃撃戦をし、死傷者が出たこともある。 当時、ポルトガル語の新聞は、この抗争をカーゾ・デ・シンドウレンメイ=臣道連盟事件=と名付け、センセーショナルに報道を続けた。 自国内に居住する東洋から来た異人種が、不可思議な抗争を繰り返し、血を流し続け、警察が派手に狩り込みをしているのである。記者や編集者を興奮させるネタであったろう。 当時のブラジルは、今日と比較すれば平和であったから、このニュースに読者は震駭した。シンドウレンメイ・トッコウタイは、彼らの脳裏に焼き付き、それは何十年経っても消えなかった。 筆者は、ある非日系の老婦人が、半世紀以上も後に、この事件を想い出しながら「シンドウレンメイ・トッコウタイ」と呟き顔をしかめるのに接したことがある。 日本でも、事件発生後「ブラジルで、祖国が戦争に勝ったと信じる愚かな移民たちが、敗戦を認める同胞を次々と襲い、殺し傷つけた」と嘲笑う記事が新聞や雑誌に載った。 これらのポ語・日語の報道は、以後も修正されることはなかった。戦勝派は狂信者と決めつけられた。 付記しておけば、戦勝派・敗戦派は後に勝ち組・敗け組と呼ばれる様にもなる。が、これは「事件から何年か後に、日本から来た旅行者がつけた呼称である」と主張する(当時を知る)人もいる。 筆者が調べてみた範囲内では、当時の資料では勝ち組・敗け組という言葉は使われていない。戦勝派・敗戦派が使われている。 戦勝派には信念派、強硬派という呼称もあった。 その連続殺傷事件から半世紀以上の歳月が流れ、二十世紀が二十一世紀に変わるまで多くの研究者、記者、モノ書きがこの事件を様々な形で繰り返し活字にした。 内容は臣道連盟・特攻隊犯行説で共通している。 但し、それはあくまで通説であった。しかし長い歳月の中で定説化し、後年、認識派史観と呼ばれる様にもなった。敗戦認識派の歴史観という意味である。 一方で戦勝派の歴史観もあったが、報道されることは殆どなかった。戦後、発行された日本語の新聞・出版物の多くが認識派史観に基づいて記事を作成したからである。 戦勝派の新聞・出版物も多少出たが、長続きしていない。 しかし連続殺傷事件が、もしその認識派史観の通りであったら、もの凄いテロが、ブラジルの日系社会史上、存在したことになる。 それはそれで驚嘆せざるを得ない。日本人のテロ(国内・国外を含めて)としては、その歴史上、最大級であろう。 ただしテロという定義を否定する関係者もいる。これも別章で触れることになる。 ところで、その臣道連盟や特攻隊は、その後どうなったのだろうか? 認識派史観が正しければ、連盟の役員は当然、重刑を課せられた筈である。ところが、認識派史観は、この点には全く触れていない。 なお、臣道連盟は事件後、解散した。直ぐ再建が図られたが、内紛が起こって分裂、やがて自然消滅している。 特攻隊、つまり襲撃の実行者たちで逮捕された者は当然、起訴され懲役何十年といった判決を受け、服役した。実際は判決に比べれば、ごく短期間で仮釈放されている。 彼らは世の片隅で第一歩から、人生をやり直した。往年の特攻隊員たちは、その様にして生き、死んで行った。あるいは、沈黙したまま、今(筆者が、この章を作成し始めている二十世紀末現在)も生きている…ということになる。 お粗末! 認識派史観 筆者は、右の襲撃事件が起きた一九四六、七年から約二十年後の一九六六年、日本からサンパウロに転住してきた。二十四歳だった。 その後、日系社会の報道関係の仕事に携わったが、事件に関しては長く認識派史観を鵜呑みにしていた。 往年の臣道連盟員や特攻隊員が表に現れることは全くなかった。闇の中に潜んでいるという感じだった。 そして、そのまま二十数年が経ち、筆者は、五十歳を過ぎた頃、大変な仕事にのめり込んでしまった。 やがて百周年を迎える日系社会の歴史を調査・取材・執筆するという仕事である。 それは、いつまで経っても終わることはなかった。この『百年の水流』再改訂版の制作もその一つある。 その途中、連続襲撃事件に取りかかった時、手にすることができた資料には、一応目を通した。が、通し終わった時、重大な問題に気づいた。 その資料の内容は総ていわゆる認識派史観であったが、いずれも「事件当時のポルトガル語の新聞記事に頼って内容を構成しており、執筆者が自身で調査・取材をしていない」という事実だった。

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