1軍で出番に恵まれなかった巨人・秋広優人とソフトバンク・リチャードの“ロマン砲”同士の交換トレードが話題を集めている。過去にも2軍で塩漬け状態だったり、1軍でほとんど出番のなかった選手がトレードを機にあっと驚く大覚醒を遂げた例は多い。 一番の出世頭は、中日の2軍で“飼い殺し”状態だったのに、近鉄に移籍するなり、主砲としてブレイクしたラルフ・ブライアントだ。 1988年4月18日に中日の第3の助っ人として来日したブライアントだったが、1軍にゲーリー・レーシッチと郭源治がいたため、登録枠(当時は2人)から漏れ、ずっと2軍暮らし。「毎日長い練習ばかりで、まるで軍隊にいるみたいだったよ」と“人生最悪の1カ月半”を嘆くばかりだった。 そんな矢先の6月7日、近鉄の主砲リチャード・デービスが大麻不法所持で逮捕され、同27日に解雇されたことが、野球人生を一転バラ色に変える。 4番打者を失った近鉄は代役探しが急務となったが、当時の助っ人の獲得期限は6月30日。渡米する時間的余裕もなく、間に合わせに中日の2軍でくすぶっているブライアントに目をつけた。粗削りで三振は多いものの、ツボにはまったときの長打力に賭けた形だ。 中日側もこのままでは1軍で出番がないことから、譲渡に応じ、6月28日に移籍決定、翌29日に1軍登録、同日の日本ハム戦に6番レフトで先発出場という慌ただしさのなか、ブライアントはいきなり来日初安打初打点と結果を出した。その後も“名伯楽”中西太コーチの指導で日本の野球に対応し、同年は出場74試合で34本塁打73打点を記録。勝率5割そこそこだったチームが“伝説の10・19”をはじめ、優勝目前まで躍進できたのも、ブライアントの貢献あってのものだった。 翌89年もブライアントは10月12日の西武戦ダブルヘッダーで2試合にまたがる4打数連続本塁打を放ち、9年ぶりVの立役者に。在籍8年で本塁打王を3度獲得するなど、通算259本塁打を記録した。